忙しい夜に「ちゃんとした食事」を諦めなくてよかったと思えた、「よりそう」冷凍切り身という選択


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冬の夜って、部屋の音が少なくて、気持ちの輪郭だけがやけに大きくなる。

今日の私は、冷蔵庫の前に立ったまま、しばらく動けなかった。

夜の9時すぎ。換気扇の弱い音と、エアコンの乾いた風。キッチンの蛍光灯だけが白くて、まるで自分の迷いを照らしてるみたいだった。

冷凍庫を開けたら、氷の匂いがする。

霜がついた引き出しに、何かが押し込まれている。たぶん、いつかの私が「未来の私が助かるように」と買っておいた食材。だけど、未来の私は今、助かるどころか、あの頃の善意に軽く苛立っている。

「ちゃんと食べたい」って思ってた。

なのに、今日もうまくいかなかった。

買い物に行く予定だったのに、夕方の仕事が長引いて、スマホの画面が暗くなる頃には、外に出る元気が残っていなかった。

一人暮らしって、誰も怒らない代わりに、誰も止めてくれない。コンビニで済ませてもいいし、何も食べなくてもいいし、甘いもので埋めてもいい。自由って、薄い布団みたいに、気づくと体温を奪っていく。

私は、冷蔵庫の扉を閉めて、いったんコップに水を注いだ。

水って、偉い。いつでも透明で、こっちの事情を聞かない。飲むと、とりあえず「生きてる感」だけは回復する。

だけど、本当は、回復したいのは体じゃなくて、気持ちだった。

今日の失敗は、別に大きなことじゃない。

ダイエットに失敗したとか、仕事でやらかしたとか、そういうドラマじゃない。

ただ、「自分の面倒を、自分で見れなかった」っていう、小さい敗北。

私は時々、こういう夜に、ひとりで拗ねる。

誰かのせいにできないから、拗ねる先がない。だから、自分に向かって、じわじわ毒を回すみたいに責めてしまう。

「どうして私は、いつも最後が雑なんだろう」
「どうして私は、ちゃんとしてる人になれないんだろう」

言葉にすると大げさで、ちょっと恥ずかしい。


でも、こういう恥ずかしさが、案外いちばん根深い。

便利って、私を甘やかすのか、救うのか


洗い物が増えるのが嫌で、料理をやめたわけじゃない。

レシピがわからないから、料理を避けてるわけでもない。

私が料理から遠ざかるのは、たぶん「心の余裕がないとき」だ。

余裕がないと、包丁を持つことすら、何かの決意みたいになる。

「よし、今からちゃんとするぞ」っていう、ひとり芝居の幕が上がる。

それが疲れる。

だから私は、便利なものに頼る。

冷凍食品とか、カット野菜とか、レンチンで終わるおかずとか。

便利は、私を甘やかす。

でも同時に、便利は、私を救う。

この二つが、同じ顔をしているのがややこしい。

甘やかされたい夜もあるし、救われたい夜もある。だけど、どっちなのか自分でもわからないまま、「とりあえずラクなほう」に流れて、あとでちょっと罪悪感が残る。

罪悪感って、味がないのに胃にもたれる。

満腹でも空腹でもない場所に、ずっと居座る。

今日の私は、その罪悪感を抱えたまま、冷凍庫をもう一度開けた。

引き出しの奥に、綺麗にラップされた切り身が見えた。

……たしか、定期便で届いたやつ。

「便利と品質を追求した切り身の定期便【よりそう】」

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名前が、ちょっと優しすぎる。

こっちが勝手に荒れてるときに「よりそう」って言われると、逆に心が痛くなる。

でも、こういう優しさって、意外と必要なのかもしれない。

私みたいに、うまく暮らせない日の自分を、あとから責めてしまうタイプには。

冷凍庫から切り身を出して、袋の上から指で触れた。

カチカチで、ちゃんと冷たい。

この「ちゃんと冷たい」感じが、なんだか頼もしかった。

私がちゃんとできていない日に、食材だけがちゃんとしている。

それが少し悔しくて、少しありがたい。

フライパンを出すか迷って、結局、今日は焼くことにした。

解凍が必要かどうかすら曖昧だったけれど、説明を読むより先に、とにかく火をつけた。

いつもの私だ。結局、雑。

油を少しだけ落として、切り身を置く。

じゅう、って音がした。

この音だけで「なんか、ちゃんとしてる人」になった気がする。

そんなこと、ないのに。

焼いてる間、私はぼーっと換気扇を見上げた。

生活の音がする。

料理の匂いがする。

それだけで、さっきまでの毒みたいな言葉が、少し薄まっていく。

不思議だ。

料理って、味のためだけじゃない。

気持ちの形を整えるために、やってるところがある。

そして、切り身って、ちょうどいい。

一匹まるごとより、ずっと気が軽い。

骨取りがどうとか、下処理がどうとか、そういう話以前に、最初から「私ができる範囲」に収まっている。

私は、できる範囲の中で生きたい。

本当は、ずっとそう思っていたのかもしれない。

■>>【よりそう】便利と品質を追求した切り身の定期便

「ちゃんと」って、誰のための言葉なんだろう

焼けた切り身をお皿に乗せて、冷蔵庫から適当な野菜を出した。

結局、切っただけのトマトと、ちぎったレタス。

ドレッシングをかけて完成。

料理というより、生活の応急処置。

でも、食べたら、ちゃんと美味しかった。
(ここは事実。)

美味しいと、「私が作った」って思える。

正確には、私が焼いただけなんだけど。

それでも、私の手が介在したことが、なんだか大事だった。

味って、自己肯定感とつながってる。

上手に言えないけれど、食べたものが美味しいと、自分の今日を少しだけ許せる。

逆に、雑な食事をすると、雑な一日だった気がしてくる。

そして私は「ほらね」って、自分を裁く材料にしてしまう。

そういうクセが、私にはある。

便利なものに頼るたびに、私は「甘えてる」って思ってしまう。

でも、今日みたいに切り身を焼くだけで少し救われるなら、便利って、甘えじゃなくて“生活の支え”なのかもしれない。

ただ、ここでまた、別の揺れが出てくる。

便利に頼りすぎたら、私は何もできなくなるんじゃないか。

便利に慣れたら、私は怠け者になるんじゃないか。

……誰に言われたわけでもないのに、勝手に不安になる。

そして、その不安の根っこには、たぶん「ちゃんとしていない自分は価値がない」みたいな思い込みが潜んでる。

でもさ、じゃあ「ちゃんと」って何?

毎日自炊すること?

バランスよく食べること?

丁寧な暮らしをすること?

多分、どれも正しい。
でも、全部は無理だ。

私は一人暮らしの30歳で、仕事もあるし、機嫌が悪い日もあるし、夜になると急に寂しくなる日もある。

そういう日を抱えたままでも、生活は続いていく。

だったら、便利を使ってでも、続けられる形のほうが、よっぽど“ちゃんと”なのかもしれない。

そう思った瞬間、またちょっとだけ怖くなる。

「じゃあ、私は今まで、何を必死に守ろうとしてたんだろう」って。

たぶん、私は“頑張ってる自分”を守りたかった。

便利に頼ると、その頑張りが薄くなる気がして、怖かった。

頑張ってない私は、空っぽに見える気がして。

でも、空っぽに見えるのって、他人の目じゃなくて、自分の目なんだよね。

自分が自分を見張ってる。

今日の私は、切り身を焼いただけで、ほんの少しだけその見張りが緩んだ。

たぶん「よりそう」っていう名前に、ちょっと負けた。

負けてよかった、って思える夜もある。

便利って、私を怠けさせるんじゃなくて、私の「責める力」を弱めてくれることがある。

そういう便利なら、私はもっと上手に使っていいのかもしれない。

でも――またここで、答えを出し切りたくない自分もいる。

だって、たぶん私は、また同じことでモヤっとする。

疲れた日にコンビニに頼って、自己嫌悪して、冷凍庫の前で立ち尽くす。

その繰り返しの中で、たまに「今日は切り身を焼けた」っていう小さい成功が挟まる。

生活って、きっとそういうもの。

【よりそう】のことは、きちんとまとめるには、まだ私の中で温度が足りない。

便利で品質が良い、って言い切るのも簡単だけど、私が書きたいのはそこじゃない気がする。

“便利に助けられる自分”を、どこまで許せるか。

その揺れのほうが、私にとってはリアルだ。

詳しいことは、たぶんメインブログのほうで、もう少し落ち着いて書く。

今日は、ここまで。

食べ終わった皿を洗いながら、指先が少しだけ温かかった。

それだけで、今夜は十分だった気がした。

■>>【よりそう】便利と品質を追求した切り身の定期便