ChatGPT Image 2026年9月23日 12_52_30 (2)

紙のおしぼりの袋が、ぴりっと予想以上に大きな音を立てた。
カフェの向かいの席で、初めて会う男性が顔を上げる。
「休日は、何をしているんですか」
「はい。休日は、お休みしています」

間違ってはいない。けれど、わざわざ待ち合わせて伝える情報でもなかった。

私は笑ってごまかしながら、コーヒーカップの取っ手に指をかけた。まだ熱い。耳まで熱い。窓の外では、風に押された落ち葉が歩道を滑っている。

出かける前は、もう少しうまく話せる予定だった。

好きな食べ物の話をして、相手の趣味を聞いて、自然に笑う。たったそれだけの予定が、目の前に男性が座った瞬間、どこかへ行ってしまった。

恋をしたい私が、テーブルの下に隠れている

好きになる前から、失敗するのが怖かった

男性と向かい合うと、私はときどき、自分の声の出し方まで分からなくなる。

普段より高くなった声。置き場所の決まらない手。視線は相手の目の手前で曲がり、シャツの襟や、テーブルの木目に着地する。

目を見て話したほうがいい。

そんな言葉を思い出すほど、今度は「何秒くらい見るものなのか」が気になって、相手の話が耳を通り抜けていく。

でも、恋愛をしたくないわけではない。

帰り道に見つけた変な形の雲を、誰かに送ってみたい。おいしかったパンを半分にして、「こっちも食べて」と言ってみたい。日曜日の夕方が、もう少し長ければいいのにと思うような恋がしたい。

そういう願いは、ちゃんとある。

ただ、その場面を想像するときの私は、なぜかいつも会話が上手だ。現実の私は、休日に休んでいることを丁寧に報告しているのに。

婚活中の私は、一度会うと決まっただけで、少し先まで考えすぎるところがある。

せっかく会えるのだから、感じよくしなければ。つまらない人だと思われたら、次はないかもしれない。

まだ相手がどんな人なのかも知らないうちから、私は「嫌われない私」を用意しようとしていた。

素敵な恋がしたい。その気持ちに嘘はない。

でも、そのすぐ隣には、ぎこちない自分を見られたくない気持ちも座っている。できれば好きになってほしい。けれど、好きになる前に傷つくのは避けたい。

その二人分の気持ちを抱えていたら、コーヒー一杯の時間が重たくなるのも、無理はなかった。

エプロンを外すと、言葉まで頼りなくなった

飲食と美容の仕事を合わせて、私は約十年間、いろいろな人と話してきた。

男性のお客様に注文を聞いたこともあるし、世間話をしながら笑ったこともある。

だから、「接客をしていたなら、話すのは得意でしょう」と言われると、返事に少し困る。

仕事中には、私の役割があった。

メニューを渡す。希望を聞く。分からなければ確認する。次に何をしたらいいか、手元に小さな道順がある。

けれど、婚活の席には、その道順がない。

「何がお好きですか」と聞く私自身が、相手から見られている。仕事の話なら言葉が出るのに、「サクラックさんはどうですか」と返されると、急に足元がふわふわした。

飲食の仕事をしていた頃、注文を決めるまで、少し時間のかかるお客様がいた。

私がそばに立って待っていると、かえって急がせてしまう。そう感じたときは、「決まったら呼んでくださいね」と一度離れた。

しばらくすると、その方は落ち着いた声で注文をしてくれた。

大きな出来事ではない。でも、今になって思い出す。

私は人の緊張には、少し待つことができていた。それなのに、自分には「早く話して」「ちゃんと笑って」と、ずいぶん急かしている。

接客を通して、自分の心が整っていないと、相手に向ける気遣いまで固くなることを知った。

その「自分」の中に、恋をしたい私も入れてよかったのだと思う。

緊張をなくしてから席につくのは難しくても、緊張している自分を、席から追い出さずにいることならできるかもしれない。



質問は用意したのに、私がいなかった

あの日、私はスマートフォンに、話題のメモを作っていた。

休日。食べ物。最近見た映画。

沈黙になったら思い出せるようにと、電車の中で何度も見直した。用意しておけば安心できるはずだった。

ところが、自分の返事でつまずいたあと、私は取り返そうとして質問を続けた。

「映画は見ますか」
「たまに見ます」
「好きな食べ物はありますか」

相手が映画の話を続けようとしたところへ、食べ物の質問を重ねてしまった。

恋愛をしに来たはずが、私だけ聞き取り調査を始めていた。

「あ、すみません。今、何か言いかけましたよね」

慌てて言うと、相手は「この前見た映画のことなんですけど」と話を戻してくれた。

私はうなずいた。今度こそ聞こうと思った。けれど、頭の隅では、失礼だった、変に思われた、と反省が始まっている。

相手の話を聞きたいのに、自分の採点で忙しい。

それに気づいたとき、なんだか急に疲れてしまった。

「私、初対面だと緊張して、質問ばかりになっちゃうんです」

言うつもりのなかった言葉が出た。

相手は少し笑って、「僕も、話題を考えてきました」と言った。

それで急に打ち解けた、というほどのことはない。私はそのあともスプーンを落としかけたし、会話は何度か途切れた。

ただ、続きを急いで用意しなくてもいい時間が、少しだけできた。

私はカップに視線を落としたまま、「さっきの映画、どんなところがよかったんですか」と聞き直した。

目をまっすぐ見られなくても、その返事は、それまでよりよく耳に入ってきた。

カップを置く音が、やっと聞こえた

帰りの電車で、私はいつものように反省会を始めかけた。

変な返事をした。質問をかぶせた。目をあまり見られなかった。

けれど、その日は途中で、別のことも思い出した。

言い直すのを待ってもらえたこと。緊張していると話したあと、無理にからかわれなかったこと。そして、私も相手の映画の話を、少し面白いと思えたこと。

「私はうまくできたか」のほかにも、思い出していいことがあった。

相手の前で、分からないと言えたか。返事を急がずにいられたか。帰りたい時間を、ちゃんと伝えられたか。

私にとっては、そういう感覚も、次に会いたいかを考える材料になる。

もちろん、緊張を打ち明ければ、誰とでも話しやすくなるわけではない。言いたくないことまで説明する必要もないと思う。

もし視線をそらしたことを責められたり、気の進まない誘いを断ったときに不機嫌になられたりしたら、「私が男性に慣れていないせい」で全部片づけたくはない。

自分の緊張と、相手の言動で感じる居心地の悪さ。その二つを、私はまだ上手に見分けられないことがある。だからこそ、会ったあとにほっとしたのか、ずっと自分を責めているのか、少し時間を置いて確かめたい。

今度また誰かに会うなら、質問のメモは少なくしてみようと思う。

一つ聞いたら、返ってきた言葉を聞く。話したいことが浮かんだら、私も一つ話す。視線が苦しくなったら、飲み物を見ながらでもいい。

次の約束も、最初から長い時間にしなくていい。私なら、帰る時間の見える、お茶一杯くらいから始めたい。

それでも帰宅後に落ち込む日は、きっとある。恋愛の前でだけ器用な人に、明日から変われるわけではないから。

でも、男性が苦手なまま、誰かを好きになりたいと思っていてもいい。

その気持ちを叶えるために、毎回、自分の居心地まで差し出さなくてもいい。私はようやく、そう考え始めている。

あなたには、上手に話せなかったのに、なぜかほっとした時間がありますか。

家に帰って、いつものカップに温かいコーヒーを注いだ。

スマートフォンの話題メモを開き、「休日」の横に、短く書き足す。

「家で文章を書く。パンを買いに行く。たまに、何もしない」

作家になりたい私には、書きたいことがたくさんあるのに、自分を紹介する言葉はまだ少ない。

次に聞かれたら、このうち一つくらい、渡せるだろうか。

カップを机に置くと、ことん、と小さな音がした。

今日の私の返事も、不格好だけれど、あの席にちゃんと届いていた。今夜はそれを、取り消さずにおこうと思う。