紙のおしぼりの袋が、ぴりっと予想以上に大きな音を立てた。
カフェの向かいの席で、初めて会う男性が顔を上げる。
「休日は、何をしているんですか」
「はい。休日は、お休みしています」
間違ってはいない。けれど、わざわざ待ち合わせて伝える情報でもなかった。
私は笑ってごまかしながら、コーヒーカップの取っ手に指をかけた。まだ熱い。耳まで熱い。窓の外では、風に押された落ち葉が歩道を滑っている。
出かける前は、もう少しうまく話せる予定だった。
好きな食べ物の話をして、相手の趣味を聞いて、自然に笑う。たったそれだけの予定が、目の前に男性が座った瞬間、どこかへ行ってしまった。
恋をしたい私が、テーブルの下に隠れている
好きになる前から、失敗するのが怖かった
男性と向かい合うと、私はときどき、自分の声の出し方まで分からなくなる。
普段より高くなった声。置き場所の決まらない手。視線は相手の目の手前で曲がり、シャツの襟や、テーブルの木目に着地する。
目を見て話したほうがいい。
そんな言葉を思い出すほど、今度は「何秒くらい見るものなのか」が気になって、相手の話が耳を通り抜けていく。
でも、恋愛をしたくないわけではない。
帰り道に見つけた変な形の雲を、誰かに送ってみたい。おいしかったパンを半分にして、「こっちも食べて」と言ってみたい。日曜日の夕方が、もう少し長ければいいのにと思うような恋がしたい。
そういう願いは、ちゃんとある。
ただ、その場面を想像するときの私は、なぜかいつも会話が上手だ。現実の私は、休日に休んでいることを丁寧に報告しているのに。
婚活中の私は、一度会うと決まっただけで、少し先まで考えすぎるところがある。
せっかく会えるのだから、感じよくしなければ。つまらない人だと思われたら、次はないかもしれない。
まだ相手がどんな人なのかも知らないうちから、私は「嫌われない私」を用意しようとしていた。
素敵な恋がしたい。その気持ちに嘘はない。
でも、そのすぐ隣には、ぎこちない自分を見られたくない気持ちも座っている。できれば好きになってほしい。けれど、好きになる前に傷つくのは避けたい。
その二人分の気持ちを抱えていたら、コーヒー一杯の時間が重たくなるのも、無理はなかった。
エプロンを外すと、言葉まで頼りなくなった
飲食と美容の仕事を合わせて、私は約十年間、いろいろな人と話してきた。
男性のお客様に注文を聞いたこともあるし、世間話をしながら笑ったこともある。
だから、「接客をしていたなら、話すのは得意でしょう」と言われると、返事に少し困る。
仕事中には、私の役割があった。
メニューを渡す。希望を聞く。分からなければ確認する。次に何をしたらいいか、手元に小さな道順がある。
けれど、婚活の席には、その道順がない。
「何がお好きですか」と聞く私自身が、相手から見られている。仕事の話なら言葉が出るのに、「サクラックさんはどうですか」と返されると、急に足元がふわふわした。
飲食の仕事をしていた頃、注文を決めるまで、少し時間のかかるお客様がいた。
私がそばに立って待っていると、かえって急がせてしまう。そう感じたときは、「決まったら呼んでくださいね」と一度離れた。
しばらくすると、その方は落ち着いた声で注文をしてくれた。
大きな出来事ではない。でも、今になって思い出す。
私は人の緊張には、少し待つことができていた。それなのに、自分には「早く話して」「ちゃんと笑って」と、ずいぶん急かしている。
接客を通して、自分の心が整っていないと、相手に向ける気遣いまで固くなることを知った。
その「自分」の中に、恋をしたい私も入れてよかったのだと思う。
緊張をなくしてから席につくのは難しくても、緊張している自分を、席から追い出さずにいることならできるかもしれない。
質問は用意したのに、私がいなかった
あの日、私はスマートフォンに、話題のメモを作っていた。
休日。食べ物。最近見た映画。
沈黙になったら思い出せるようにと、電車の中で何度も見直した。用意しておけば安心できるはずだった。
ところが、自分の返事でつまずいたあと、私は取り返そうとして質問を続けた。
「映画は見ますか」
「たまに見ます」
「好きな食べ物はありますか」
相手が映画の話を続けようとしたところへ、食べ物の質問を重ねてしまった。
恋愛をしに来たはずが、私だけ聞き取り調査を始めていた。
「あ、すみません。今、何か言いかけましたよね」
慌てて言うと、相手は「この前見た映画のことなんですけど」と話を戻してくれた。
私はうなずいた。今度こそ聞こうと思った。けれど、頭の隅では、失礼だった、変に思われた、と反省が始まっている。
相手の話を聞きたいのに、自分の採点で忙しい。
それに気づいたとき、なんだか急に疲れてしまった。
「私、初対面だと緊張して、質問ばかりになっちゃうんです」
言うつもりのなかった言葉が出た。
相手は少し笑って、「僕も、話題を考えてきました」と言った。
それで急に打ち解けた、というほどのことはない。私はそのあともスプーンを落としかけたし、会話は何度か途切れた。
ただ、続きを急いで用意しなくてもいい時間が、少しだけできた。
私はカップに視線を落としたまま、「さっきの映画、どんなところがよかったんですか」と聞き直した。
目をまっすぐ見られなくても、その返事は、それまでよりよく耳に入ってきた。
カップを置く音が、やっと聞こえた
帰りの電車で、私はいつものように反省会を始めかけた。
変な返事をした。質問をかぶせた。目をあまり見られなかった。
けれど、その日は途中で、別のことも思い出した。
言い直すのを待ってもらえたこと。緊張していると話したあと、無理にからかわれなかったこと。そして、私も相手の映画の話を、少し面白いと思えたこと。
「私はうまくできたか」のほかにも、思い出していいことがあった。
相手の前で、分からないと言えたか。返事を急がずにいられたか。帰りたい時間を、ちゃんと伝えられたか。
私にとっては、そういう感覚も、次に会いたいかを考える材料になる。
もちろん、緊張を打ち明ければ、誰とでも話しやすくなるわけではない。言いたくないことまで説明する必要もないと思う。
もし視線をそらしたことを責められたり、気の進まない誘いを断ったときに不機嫌になられたりしたら、「私が男性に慣れていないせい」で全部片づけたくはない。
自分の緊張と、相手の言動で感じる居心地の悪さ。その二つを、私はまだ上手に見分けられないことがある。だからこそ、会ったあとにほっとしたのか、ずっと自分を責めているのか、少し時間を置いて確かめたい。
今度また誰かに会うなら、質問のメモは少なくしてみようと思う。
一つ聞いたら、返ってきた言葉を聞く。話したいことが浮かんだら、私も一つ話す。視線が苦しくなったら、飲み物を見ながらでもいい。
次の約束も、最初から長い時間にしなくていい。私なら、帰る時間の見える、お茶一杯くらいから始めたい。
それでも帰宅後に落ち込む日は、きっとある。恋愛の前でだけ器用な人に、明日から変われるわけではないから。
でも、男性が苦手なまま、誰かを好きになりたいと思っていてもいい。
その気持ちを叶えるために、毎回、自分の居心地まで差し出さなくてもいい。私はようやく、そう考え始めている。
あなたには、上手に話せなかったのに、なぜかほっとした時間がありますか。
家に帰って、いつものカップに温かいコーヒーを注いだ。
スマートフォンの話題メモを開き、「休日」の横に、短く書き足す。
「家で文章を書く。パンを買いに行く。たまに、何もしない」
作家になりたい私には、書きたいことがたくさんあるのに、自分を紹介する言葉はまだ少ない。
次に聞かれたら、このうち一つくらい、渡せるだろうか。
カップを机に置くと、ことん、と小さな音がした。
今日の私の返事も、不格好だけれど、あの席にちゃんと届いていた。今夜はそれを、取り消さずにおこうと思う。

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