洗濯ばさみが足りない朝にだけ見える、私の暮らしの輪郭
初夏の風と、ベランダで数を数える朝
5月10日。暦の上では立夏を過ぎ、窓を開けると春よりも少しだけ強い風が入ってくる頃です。
今日は母の日でもあり、街の花屋さんにはカーネーションが並んでいて、なんとなく世の中全体が「ありがとう」を言葉にしようとしているように見えます。
そんなきれいな日に、私はベランダで洗濯ばさみの数を数えていました。
ロマンチックとはほど遠い朝です。
白いブラウス、部屋着のTシャツ、昨日なんとなく着てそのまま洗濯機に入れた薄手のカーディガン。
干すものはたくさんあるのに、洗濯ばさみが足りない。
あと2個。
たった2個なのに、その2個がないだけで、暮らし全体が少しだけ崩れて見えるから不思議です。
昔の私は、こういう小さな不足にすぐイライラしていました。
「なんで足りないの」
「いつ壊れたの」
「また買わなきゃ」
でも30代になってから、こういう何でもない瞬間に、自分の生活のクセが出ることに気づいたのです。
足りないのは洗濯ばさみだけなのに、なぜか心まで足りない気がする。
時間も、余裕も、睡眠も、やさしさも、全部あと2個くらい足りない朝。
ベランダに立ったまま、私は小さく笑ってしまいました。
洗濯ばさみって、主役になることがありません。
新しいワンピースのように気分を上げてくれるわけでもないし、美容液のように鏡を見るたび期待させてくれるわけでもない。
でも、ないと困る。
地味だけど、ちゃんと支えている。
それって、なんだか大人の私たちみたいです。
誰かに褒められるほど派手ではないけれど、毎日を落とさないように、静かにつまんでいるものがある。
仕事で笑顔を作ること。
帰宅してから洗い物をすること。
返信しなきゃと思いながら、少しだけスマホを伏せること。
好きな人からの連絡を待っているふりをして、本当は自分の気持ちの置き場所を探していること。
全部、目立たない洗濯ばさみみたいな役割です。
代用した輪ゴムが、思ったより私を救ってくれた
洗濯ばさみが足りないとき、私は引き出しの奥にあった輪ゴムを使いました。
正直、かなり雑です。
でも、その雑さに少し救われました。
完璧に干さなくてもいい。
きれいに整っていなくてもいい。
とりあえず落ちなければ、今日のところはそれでいい。
そう思えた瞬間、朝の空気が少しだけ軽くなったのです。
令和の女性は、きっと器用に見られすぎています。
仕事もちゃんとして、肌も整えて、部屋も清潔で、恋愛にも前向きで、休日は自分磨き。
そんなふうに見える人ほど、実は家では洗濯ばさみが足りなくて、輪ゴムでなんとかしているのかもしれません。
でも、それでいいと思うのです。
ちゃんとしている人ほど、ちゃんとしない時間が必要です。
頑張り屋さんほど、雑に済ませる技を持っていたほうがいい。
輪ゴムで留めた洗濯物は、少し不格好でした。
でも、初夏の風に揺れている姿は、なんだか自由でした。
きちんと挟まれていないぶん、余白がある。
その余白が、今の私にはちょうどよかったのです。
考えてみれば、私たちの毎日も代用品だらけです。
疲れた日の夕飯は、手作りじゃなくてコンビニのおにぎり。
泣きそうな夜の癒やしは、高級エステじゃなくて湯船に浮かべた入浴剤。
誰にも言えない不安は、長文の日記じゃなくて、検索窓に打ち込む短い言葉。
完璧な解決策ではないけれど、その場を落とさずに支えてくれるもの。
それがあるだけで、人は今日を越えられます。
輪ゴムで干した洗濯物を見ながら、私は思いました。
人生に必要なのは、いつも正解ではなくて、とりあえず落ちない工夫なのかもしれない。
恋愛もそうです。
理想の人に出会えない日が続くと、自分がどこか欠けているように感じることがあります。
でも本当は、まだぴったりの洗濯ばさみが見つかっていないだけ。
今は輪ゴムで、自分をそっと支えている時期なのかもしれません。
足りなかったのは洗濯ばさみではなく、手放す勇気だった
数日後、私は新しい洗濯ばさみを買いに行きました。
初夏の売り場には、日傘、冷感シーツ、虫よけグッズが並んでいて、季節がどんどん先へ進んでいる感じがしました。
私は迷わず、シンプルな洗濯ばさみを手に取りました。
これで足りる。
これで安心。
そう思ったはずなのに、帰宅して洗濯用品の箱を開けた瞬間、びっくりしました。
奥のほうに、まだ使える洗濯ばさみがたくさん眠っていたのです。
足りないと思っていたのに、本当は足りていた。
ただ、古いものや壊れかけたものや、もう使わない形のものがごちゃごちゃに混ざっていて、必要なものが見えなくなっていただけでした。
その瞬間、私は少しだけ固まりました。
これ、私の心と同じだ。
足りない、足りないと思っていた。
自信が足りない。
愛される理由が足りない。
時間が足りない。
魅力が足りない。
でも本当は、足りないのではなく、持ちすぎて見えなくなっていたのかもしれません。
昔の失敗。
誰かに言われた言葉。
もう終わった恋の記憶。
比べなくてもいい人との比較。
そういうものが心の箱の中で絡まって、本当に使えるやさしさや、まだ残っている元気や、自分を好きでいたい気持ちが見えなくなっていただけ。
私はその日、洗濯ばさみを買い足す前に、古いものを捨てました。
割れたもの。
変色したもの。
バネが弱くなったもの。
いつか使うかもと思って残していたけれど、実際には一度も選ばなかったもの。
ひとつずつ手放していくと、箱の中がすっきりしていきました。
そして、不思議なことに、新しく買った洗濯ばさみを全部入れる必要はありませんでした。
足りなかったのは数ではなく、整理する勇気だったのです。
その日の夕方、ベランダに干した洗濯物は、いつもより少なく見えました。
でも、風の通り道がありました。
服と服のあいだに、ちゃんと空気が流れていました。
私はそれを見て、少し泣きそうになりました。
びっくりするほど地味な話です。
洗濯ばさみの話です。
でも、私には大事件でした。
私はずっと、自分に何かを足せば変われると思っていました。
もっと美容を頑張る。
もっと仕事を頑張る。
もっと愛想よくする。
もっと知識を増やす。
もっと素敵な人になる。
でも本当は、足す前に、外すものがあったのです。
もう乾いているのに、まだ心にぶら下げていた過去。
誰かの期待に合わせて、必要以上に挟み続けていた自分。
それをそっと外したら、私は少し軽くなりました。
5月10日の風は、夏の入り口みたいにやわらかくて、少しだけまぶしかったです。
母の日のカーネーションみたいな華やかさはないけれど、私のベランダには、私なりの「ありがとう」がありました。
今日まで落ちずにいてくれてありがとう。
不格好でも支えてくれてありがとう。
そして、もう手放していいものに気づかせてくれてありがとう。
洗濯ばさみが足りない朝。
それは、暮らしの小さなトラブルではなく、私が私を整理するための合図だったのかもしれません。

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