靴べらの向きが気になった朝、私はまだ自分を雑に扱っていた

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玄関の靴べらが、なぜか毎朝こちらを見ている

ただの道具なのに、視線を感じる朝

4月29日。

昭和の日の朝。

ゴールデンウィークの入口に立っているような日なのに、私の部屋には特別な予定もなく、洗濯機の終了音だけがやけに元気に鳴っていました。

窓を開けると、春というより少し初夏に近い空気。

でも、まだ朝の床はひんやりしていて、素足で歩くと少しだけ目が覚めます。

そんな朝、私は玄関で固まりました。

靴べらが、こっちを向いていたんです。

いや、正確に言えば、靴べらの持ち手がこちら側を向いていただけ。

それだけです。

でも、その日はなぜか気になりました。

昨日の夜、帰ってきた私は疲れ切っていて、パンプスを脱ぎ、バッグを床に置き、靴べらを適当に立てかけました。

その“適当”が、朝になって急に私を責めてくる感じがしたんです。

「昨日も雑に帰ってきたね」
「また自分のこと後回しにしたね」
「ちゃんと暮らしてるふり、今日もするの?」

もちろん靴べらは何も言いません。

しゃべったら怖すぎます。即、引っ越し案件です。

でも、玄関にある小さな道具って、なぜかその人の帰宅後の心の荒れ方を吸い込んでいる気がします。

靴がそろっていない日。

傘が斜めに倒れている日。

郵便物が床に置きっぱなしの日。

そして、靴べらが変な向きで立っている日。

その全部が、誰にも見せない私の疲れでした。


靴べらの向きで、昨日の自分がバレる

私は、靴べらをきれいに立て直しました。

ただそれだけなのに、玄関の空気が少し変わりました。

不思議です。

掃除機をかけたわけでも、収納を見直したわけでも、風水の本を開いたわけでもありません。


ただ、靴べらの向きを直しただけ。

でもその瞬間、昨日の私に「お疲れさま」と言えた気がしました。

30代になると、暮らしの中に“誰にも気づかれない乱れ”が増えていきます。

職場ではちゃんとしている。

メイクもする。

人には笑顔で接する。

LINEの返信も、まあまあ感じよく返す。

でも家に帰ると、急に電池が切れます。

玄関でバッグを置いたまま動けない。

コートを椅子にかける。

レシートをテーブルに置く。

スマホを握ったままソファに沈む。

そして翌朝、その全部が静かに残っている。

靴べらの向きは、そんな生活の小さな証拠品でした。

私は思いました。

もしかして、部屋が散らかっているから疲れるんじゃなくて、疲れている私が部屋に置き去りになっているのかもしれない。

靴べらは、ただの道具です。

でも、毎日「いってらっしゃい」と「おかえり」の間にいる道具です。

だからこそ、向きひとつで心がざわつく日がある。

誰かに話したら「細かすぎない?」と言われそうだけど、こういう細かすぎることに気づく朝って、実はけっこう大事なのかもしれません。


そして最後に、私は靴べらを隠した

その日から私は、靴べらの向きを毎朝そろえるようになりました。

持ち手を右。

先端を左。

壁に対して少し斜め。

まるで小さな儀式です。

それをするだけで、出勤前の気持ちが少し整いました。

「今日も完璧じゃなくていい」
「でも、玄関だけは私の味方にしておこう」

そんなふうに思えるようになったんです。

ところが、数日後。

私は突然、靴べらを玄関から消しました。

自分でもびっくりしました。

あんなに向きを気にしていたのに。

あんなに整えることで安心していたのに。

私は靴べらを下駄箱の中にしまったんです。

理由は、きれいに暮らしたかったからではありません。

逆でした。

私は気づいてしまったんです。

靴べらの向きを整えていたのは、暮らしを大切にするためじゃなくて、乱れている自分を隠すためだったんだと。

本当は、玄関を整える前に、帰ってきた自分を座らせてあげたかった。

靴をそろえる前に、「今日しんどかったね」と言ってあげたかった。

靴べらを正しい向きに戻す前に、私自身を責める癖を戻したかった。

だから私は、靴べらをしまいました。

見えない場所に置いたら、玄関は少し物足りなくなりました。



でも、その代わりに小さな椅子を置きました。


帰ってきたら、そこに座る。

靴を脱ぐ。

深呼吸する。

何もしないで、10秒だけぼーっとする。

靴べらは、まだ下駄箱の中にあります。

必要なときだけ出します。

そして私は思いました。

私に必要だったのは、靴べらの正しい向きじゃなかった。

疲れた私が、ちゃんと帰ってこられる場所だったんです。

玄関は、誰かを迎える場所だと思っていました。

でも本当は、毎日いちばん最初に私を迎えてくれる場所でした。

だから今日も、私は帰ってきたらまず座ります。

靴べらより先に、自分を立て直すために。


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