たけのこごはんって、ちょっとずるい
仕事から帰ったのが21時を少し回っていて、玄関でパンプスを脱いだ瞬間、足の裏がじんわり熱を持ってるのがわかって、ああ今日もちゃんと疲れてるな、って、変なところで実感した夜がありました。
メイクは半分くずれてるし、髪もなんだか広がってるし、冷蔵庫を開けても、あるのは卵とヨーグルトと、使いかけの小ねぎだけ。
こういうときの私は、だいたい気持ちまで味気なくなっていて、夕飯なんて何でもいいはずなのに、何でもいい日に限って、何を食べるかで妙にさみしくなったりするんですよね。
棚の奥から出てきた、たけのこごはん。
あ、これあったんだ、と思ったときの気持ちが、うれしいというより、少しだけ救われたに近かったです。
袋を持った手に、保存食っぽい軽さがあるのに、たけのこごはん、という響きだけはやけに春っぽくて、そのアンバランスさがちょっと好きでした。
尾西食品のものは、国産うるち米を使っていて、水かお湯を入れるだけで食べられるアルファ米で、1食100g、できあがりは260g。スプーンも付いていて、常温で5年保存できる仕様らしくて、こういう現実的な情報だけ並べると、ずいぶん頼もしい顔をしている食品なんだなと思います。
具には水煮たけのこやぶなしめじが入っていて、アレルギー物質28品目不使用とも案内されています。
でも、その日の私は、頼もしさより先に、たけのこ、という言葉に反応していました。
春の炊き込みごはんって、自分で作ろうと思うと急に面倒になるじゃないですか。
たけのこの下ごしらえとか、だしの感じとか、しょっぱくしすぎたらいやだなとか、そんなふうに考えているうちに、結局コンビニで済ませてしまう。
ちゃんと暮らしてる人は、こういう季節のものをさらっと食卓に出せるのかな、とか思って、誰も見てないのに勝手に敗北した気分になることもあります。
お湯を注いで待つだけなのに、袋の口を開けたとき、乾いただしの香りがふわっと上がって、ああ、こういう匂い久しぶり、となりました。
お腹が空いていたはずなのに、すぐ食べたいという感じでもなくて、湯気を見ながら立ったままスマホを見て、どうでもいい動画を2本見て、それでもまだ少し時間が足りなくて、こういう数分って、なぜか自分の雑さをごまかしてくれる気がするんです。
待ってるあいだに、今日のことを思い出しました。
お客さんには笑顔で話せたし、頼まれたこともちゃんと返したし、たぶん外から見たら普通の一日。でも、帰り道に鏡に映った自分が思ったよりくたびれて見えて、あれ、こんな顔してたっけ、って少しだけへこんだんですよね。
30歳にもなると、って言いかけて、そういう言い方もなんだか自分を追い込む感じがしてやめたんですけど、なんとなく、若さで押し切れない日が増えてきたな、みたいなことは、やっぱりあります。
それで、たけのこごはんを食べたから急に前向きになったかというと、そんな綺麗な話でもないです。
ただ、一口目に、たけのこの食感がちゃんとあって、やわらかいごはんの中に少しだけしゃくっとするものが混ざる、その感じが妙に現実的で、あ、ちゃんとたけのこごはんだ、って、当たり前のことでちょっと安心したんです。
尾西食品の案内でも、食感豊かな筍をこだわりのだしで仕上げていると書かれていて、ああ、この“ちゃんと春っぽい感じ”は気のせいじゃなかったんだなと思いました。
こういうの、少し恥ずかしいけど、私はたまに、手をかけていない食事を食べる自分に勝手に点数をつけてしまいます。
野菜が足りないとか、彩りがないとか、丁寧じゃないとか。誰に採点されてるわけでもないのに、ひとりで減点して、ひとりでしょんぼりする。ほんと面倒ですよね。
なのに、保存食として作られたたけのこごはんを食べている夜のほうが、へんな見栄がなくて、かえって落ち着いたりもするんです。料理を頑張れない日があることも、買い物に行く元気がない日があることも、そういう日用の味方を家に置いていることも、別にだらしなさではないのかもしれないな、と、そこまで言い切るほどでもないけれど、少なくとも責めなくていいのかも、くらいには思えました。
それに、保存食って、災害のためだけのものだと思っていたけれど、機嫌の悪い平日の夜にも効くんですね。
水160mlでできあがるとか、お茶碗軽く2杯分の量になるとか、そういう数字はすごく実務的なのに、その実務的なものに生活が助けられる瞬間って、思っていたよりちゃんとある。
少し前までの私は、こういう便利なものに頼ると、暮らしをさぼっている感じがしていました。
でも、自分で自分を元気づける方法って、べつに手の込んだ料理じゃなくてもいいのかもしれなくて、レンジもいらない、水かお湯だけで食べられる袋のごはんに、思ったより気持ちを立て直してもらう夜があるのなら、それはそれで生活の一部なんだろうな、という気もします。
なんでもない顔をして食べながら、そういえば子どもの頃、春になると家でたけのこごはんが出るのが少しうれしかったことを思い出しました。
あの頃は、季節のごはんって、出てくるものだったんですよね。
今は、自分で選んで、自分で用意して、自分で片づける。自由って、思っていたより地味で、たまに味気ない。
その味気なさの途中で、こういう“季節っぽいもの”に出会うと、ちゃんと暮らせていない日にも、小さく帳尻が合うみたいな感じがあるんです。
たけのこごはんを食べ終わる頃には、部屋の静けさが少しやわらいでいました。
何かが解決したわけじゃないし、明日の不安もふつうにあるし、洗面台には落としきっていないアイラインの気配も残っている。
それでも、今日の私はカップ麺じゃなくて、たけのこごはんを選んだんだな、と思うと、その選び方だけは少しだけ好きでした。
こういう夜に救われるのって、すごく立派なものじゃなくていいのかもしれません。
春の炊き込みごはんみたいな顔をした、棚の奥の一袋くらいで、案外じゅうぶんな日もあるのかもしれないです。
また疲れて帰った夜、私はちゃんと覚えているでしょうか。
たけのこのしゃくっとした感じと、湯気の向こうで少しだけほどけた、自分の顔のことを。
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