炭酸水を切らした夜に気づいた、小さなストレスを減らすキッチン習慣とおうち炭酸メーカーのある暮らし

夜の10時すぎ、冷蔵庫を開けたら、作り置きでもなんでもない半端なものばかりが並んでいて、昨日の残りの味噌汁と、しなしなの青ねぎと、なぜか一袋だけあるミニトマトが、白い灯りの下でやけに生活感を出していた。

シンクには朝のマグカップがまだ置いたままで、蛇口のまわりには乾きかけた水滴、換気扇の音だけが細く続いていて、部屋は静かなのに、キッチンだけ少し機嫌が悪いみたいだった。

今日はうまくいかなかった。

会社で返したメッセージが微妙にそっけなかった気がして、帰りの電車の中で何度も読み返したし、SNSを開けば、誰かの整った夜ごはんと、ちゃんとした暮らしの動画が流れてきて、別に比べたいわけじゃないのに、こういう日に限って、こっちは無傷ではいられない。

せめて飲みものくらい、少し気分の上がるものにしたかったのに、冷蔵庫の炭酸水は切れていた。

前は、炭酸って「買うもの」だった。


仕事帰りにコンビニで1本、週末にスーパーで数本まとめて、重いなと思いながら持って帰って、冷蔵庫の下段に立てておく。飲み終わったらラベルをはがして、すすいで、乾かして、資源ごみの日までベランダ横の袋に入れておく。あの流れが、嫌いというほどではないけれど、好きでもなかった。


ただ、暮らしって、こういう「別に怒るほどじゃない面倒」が静かに積もっていくんだと思う。洗濯ネットを裏返しのまま干してしまうとか、気づいたら麦茶がないとか、その程度のこと。でも、その程度のことに限って、疲れている夜にはちゃんと刺さる。

ソーダストリームのことを見たとき、正直、最初はちょっと斜めに見ていた。

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こういうのって、丁寧な暮らしの人が置くやつじゃないの、と思ったし、白い棚、木のトレイ、観葉植物、みたいな写真の中にいる道具だと思っていた。

私のキッチンはもっと現実的で、郵便物を仮置きしたり、開けたばかりのふりかけが出しっぱなしだったりする。そこに「炭酸水メーカー」という単語を置くと、急に生活レベルを試される感じがして、少し身構えた。

でも、公式サイトを見ていたら、案外、そういう背伸びとは別の場所にある道具なのかもしれないと思った。

普段の水を数秒で炭酸水にできて、電源もいらないからキッチンでもリビングでも使えて、炭酸の強さも自分で変えられるらしい。

500mlあたり約20円からという説明もあって、毎日1本飲む人なら短い期間で元が取れる、と書かれていた。

ペットボトルを買って運んで分別して、という流れそのものを減らせるのも、地味だけどかなり大きい。ガスシリンダーはスーパーやドラッグストア、ホームセンターなどで交換できる仕組みで、わざわざ特別な店に行かなくていいのも、妙に現実的だった。

それに少し安心したのは、見た目の話だった。

TERRAみたいなモデルは、スリムなデザインが人気で、マット感のあるデザインに生まれ変わったと紹介されていて、GAIAも置きやすいスリムな形らしい。

キッチン家電って、便利かどうかだけじゃなくて、視界に入ったときにうるさくないか、けっこう大事だと思う。

料理が得意じゃないくせに、道具の見た目には細かいなんて、自分でも少し面倒だけど、朝のぼんやりした頭で見たときに「なんか無理」とならないもののほうが、ちゃんと使う。

そういう小さい相性で、暮らしは意外と続いたり途切れたりする。

たぶん私は、炭酸水そのものが好きというより、しゅわっとした音に助けられている。

コップに注いだ瞬間の細かい泡とか、喉にくる少し強めの刺激とか、そういうものが、だらしなく伸びた夜をいったん切ってくれる感じがある。

お酒を飲むほどじゃない、でも水ではちょっと寂しい、そういう宙ぶらりんな時間に、炭酸はちょうどいい顔をしている。

しかも、作りたての炭酸は好みの強さにできるらしくて、強炭酸までいけるという説明を読んで、なんだか少し笑ってしまった。

夜の自分って、だいたい無駄に強めを選ぶ。日中は角が立たないようにしているくせに、飲みものの刺激だけは欲しがるの、なんなんだろうと思う。


SNSで、すっきりしたキッチンに並ぶ家電を見るたびに、たまに小さな嫉妬がある。

ちゃんとした人の家には、ちゃんとしたものが置かれているように見えるし、そういう画面の中の生活は、なぜかゴミの日のことまで整っていそうに見える。

でも、実際に欲しいのは「映えるキッチン」じゃなくて、夜10時すぎの自分に少しやさしい流れなのかもしれない。

炭酸水を切らして、買い忘れて、ああもういいやとぬるい水を飲むあの感じを、少しだけ減らしたいだけだったりする。


ボトルを何本も抱えて帰る日、エレベーターの鏡に映る自分が、生活の荷物を全部ひとりで持っているみたいに見えて、変にみじめになることがある。

誰もそんなふうに見ていないのに。

でも、そういう、誰にも言わない小さな恥ってある。トイレットペーパーを脇に抱えて帰るときとか、半額シールだらけのお惣菜を持っているときとか、どうでもいいはずのことに限って、心が少しだけざわつく。ペットボトルの炭酸水も、たぶんその仲間だった。重さそのものより、「またなくなったから、また買う」を繰り返している感じに、ちょっと疲れていたのかもしれない。

家の中に置くものって、その人の理想じゃなくて、諦めきれなかったものが出る気がする。

便利さを選んだつもりでも、見た目を捨てきれなかったり、かわいさを選んだつもりでも、洗いやすさが最後に勝ったりする。

炭酸を“買う”から“作る”へ変えるって、節約とかエコとか、そういうきれいな言葉だけでは片づかなくて、もっと個人的な、夜の機嫌の問題に近いのかもしれない。

キッチンの隅に、生活を責めてこない道具がひとつある。それだけで、少し呼吸がしやすくなる日がある。

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これって、私だけなんだろうか。


飲みものひとつのことで、ここまで気分が左右されるのは大げさなんだろうか。

でも、帰宅して、靴を脱いで、バッグを床に置いて、部屋着に着替えたあと、冷たい炭酸がすぐある、というだけで、その日の後半戦が少しだけましになる夜がある。たぶん、そういうのは立派な幸福じゃなくていい。

誰かに話すほどでもない、小さい快適さ。

なのに、その小ささのわりに、なくなると地味に困る。

それに、キッチンに置くものを選ぶとき、私たちは料理の腕前だけで決めているわけじゃない。

散らかった朝にも視界に耐えるかとか、疲れた夜に触って嫌じゃないかとか、来客があったときに慌てて隠したくならないかとか、そういう基準のほうが、たぶん本当は多い。きれいに暮らしたいわけじゃなくて、雑でも居心地を悪くしたくない、みたいな。

その曖昧な願いに、炭酸水メーカーみたいな道具が案外ちょうど入ってくるの、少し不思議だ。

買ってきた炭酸を開ける音じゃなくて、自分で作った炭酸の音がキッチンで鳴る夜って、どんな感じなんだろう。

生活が急に整うわけじゃないのはわかっているし、シンクのコップはたぶん明日も置きっぱなしだと思う。

それでも、冷蔵庫の前で少しだけ気持ちが立て直せるなら、その変化は意外と小さくないのかもしれない。

シンクの上の白い灯りは、さっきより少しだけやわらかく見えた。

また明日になれば、別のことで、ちゃんとモヤっとする気もする。

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