外出しなかった日が無駄に感じたときに読みたい、静かな休日の話
窓の外が、いつもより白っぽかった。
冬の午後って、光がまっすぐじゃなくて、少し斜めで、部屋の角をぼんやり照らす。時計はたしか、13時を過ぎていたと思う。…と思う、って書いている時点で、今日の私はもう負けている。時間の感覚がふわふわで、何時に起きたかも、何を最初に口にしたかも、思い出せない。
ベッドの横に置いたスマホだけが、やけに元気だった。通知の数字が増えては消えて、増えては消えて、ひとりでに忙しそう。
私はというと、着替えも中途半端で、カーディガンを羽織ったり脱いだりして、結局ずっと部屋着のまま、部屋の中をゆっくり漂っていた。
洗濯はした。…“最低限”だけ。
タオルと下着と、明日の仕事に必要な一枚。それ以外は、洗濯カゴの中で静かに積み上がっている。カゴが満杯に近づいているのを見ると、胸のあたりがきゅっとする。焦り、というほど強くない。けれど、薄い針みたいなものが、ほんの少し刺さる。
外出はしなかった。
コンビニにすら行っていない。冷蔵庫の奥にあった卵と、昨日買ったパンで、なんとか一日をつないだ。お皿を洗う音さえ、今日は大げさに感じて、洗い物を「浸け置き」という名の保留にした。部屋は散らかっていない。でも、整ってもいない。私の気分と同じ。
そして、気づいたら夕方だった。
窓ガラスに自分の顔が薄く映って、夕焼けの色に染まって、なんだか他人みたいに見えた。
その瞬間、遅れてきた罪悪感みたいなものが、ふわっと浮いてきた。
「私、今日なにしてたんだろ」
声に出してみたら、さらに情けなかった。
たぶん、私は“休日の正しい過ごし方”みたいな採点表を、どこかに持っている。部屋を片付けた、外に出た、運動した、誰かと会った、作り置きをした、勉強した。
そういう項目をクリアしていくと、休日は「成功」になる。逆に、何もしないと「失敗」になる。
でも今日の私は、その採点表に一個もチェックを入れてない。
洗濯だけ、ちょん、と小さく丸がつくくらい。だから、夕方になって急に不安になった。人に見せる予定もないのに、誰に叱られるわけでもないのに、「今日」という一日が、無駄だった気がしてしまう。
休日の“何もしない”が刺さる理由
不思議なのは、私が今日サボったわけじゃない、ってことを、頭では分かっているところ。
平日の私は、ちゃんとやってる。ちゃんと起きて、ちゃんと働いて、ちゃんと笑って、ちゃんと空気を読む。
それって、たぶん“ちゃんと”の皮を被った、ものすごく細かい気遣いの連続で、気づかないうちに体力を削る。
たとえば、職場での「大丈夫です」の言い方。
本当に大丈夫じゃない時ほど、語尾が柔らかくなる。
「すみません」の回数。
誰も責めてないのに、先に謝って場を丸くする癖。
話しかけられた時の表情の作り方。
自分のテンションを相手の温度に合わせること。
こういう小さな調整を、私たちは“無意識”って顔でやっている。
むしろ、やりすぎていることに気づけない。
だから休日に入った瞬間、糸がぷつんと切れるみたいに、体が動かなくなることがある。
ソファに座っただけで、身体の奥のほうから「もう、今日はここまででいいよ」って声がする。
その声に従うと、私は一日、ほとんど何もできない。
何もできない、というより、何も“したくない”。
したくない、というより、何も“決めたくない”。
今日は何を食べるとか、どこに行くとか、何時に風呂に入るとか、そういう些細な選択すら、今日は私にとっては大仕事だった。
休日なのに、休日の段取りすら組めない。
それが情けなくて、私はよく「私って休むの下手だな」と思う。
でも、休むのが下手なのは、休む練習をしてこなかったからかもしれない。
頑張る練習は、みんな毎日してる。
歯を食いしばるのも、取り繕うのも、平気なふりをするのも、上達しやすい。
だってそれは、社会の中で褒められやすいから。
「ちゃんとしてるね」って言われるから。
だけど“何もしない”って、褒められない。
むしろ、怖い。
何もしない時間は、自分の中の静けさに、正面から向き合うことになる。
静けさって、ときどき、耳が痛い。
今日の私は、スマホをいじって、動画を流して、ぼーっとして、またスマホをいじって…それを繰り返していた。
たぶん、静けさが怖かったんだと思う。
何かを見ていないと、考えが浮かんでくる。
考えが浮かぶと、自分の不安や、焦りや、周りとの比較が、ぶわっと湧く。
だから、何かで埋めてしまう。
それでも夕方になった時、私は結局「今日なにしてたんだろ」って思った。
自分で自分を裁く声が、心の中で小さく立ち上がった。
――何も成し遂げてない。
――今日も、成長してない。
――誰とも会ってない。
――未来に繋がること、してない。
その声が、私の背中を丸める。
でもね。
そのあと、さらにもうひとつの声が、遅れて来た。
「回復してたんじゃない?」
“回復”って言葉を、ちゃんと信じられるか
回復。
すごく便利で、すごく優しい言葉だと思う。
“何もしなかった”を、救ってくれる。
“サボった”を、“必要だった”に変えてくれる。
でも、私はその言葉を、すぐには信じられなかった。
だって回復って、目に見えない。
元気になった実感が、今日の私にはない。
むしろ、夕方になって焦っている。
焦っている時点で、回復できてない気がする。
…けれど、それって回復の仕方を勘違いしているだけかもしれない。
回復って、爽やかな達成感があるものじゃなくて、
ただ「これ以上、壊れなかった」っていう静かな結果なのかもしれない。
平日の私は、無意識に気を張っている。
笑って、合わせて、考えて。
それを“普通”だと思って生きている。
だから、休日くらい、頭を空っぽにしてもいい。
空っぽにする練習をしないと、ずっと張りっぱなしで、ある日突然、ぷつっと切れてしまう。
今日の私は、洗濯を最低限だけして、外に出ないで、夕方までぼーっとしていた。
それは、人生の成果にはならないかもしれない。
誰かに話して「すごいね」と言われる出来事でもない。
でも、心が静かだった瞬間は、確かにあった。
窓の外の光を見て、ただ息を吸って吐いて、
「今日はもう、いいか」って思えた時間が、ほんの少しだけ。
生産性がなくても、成果がなくても、
心が静かなら、それは立派な休日。
そう書くのは簡単。
でも、それを自分に許すのは難しい。
許したいのに、許せない。
休みたいのに、休むことに罪悪感がついてくる。
まるで、休むことが“怠け”の証拠みたいに。
たぶん私は、休むのが下手な大人だ。
だからこそ、今日はこの言葉を、机の上に置いておく。
「今日は、休めた。それで合格。」
合格って、誰が決めるんだろう。
私が決めていいはずなのに、まだどこかで他人の採点表を見ている。
それでもいい。今日の私は、答えを出し切らない。
「休めた」と言い切るには、まだ揺れているから。
ただ、ひとつだけ。
夕方になって「今日なにしてたんだろ」と思った私に、
「回復してたんだよ」と囁けたことは、少しだけ進歩だったのかもしれない。
夜になったら、また明日の準備が始まる。
また“ちゃんと”が始まる。
だから今夜くらいは、今日の私を叱らないでおこうと思う。
そう思っても、きっと途中で揺れる。
揺れたら揺れたで、「今の私、揺れてるな」って眺めるだけにする。
休日は、いつも完璧じゃなくていい。
むしろ、完璧じゃない休日のほうが、たぶん私を救う。
何もしない日があるから、何かする日がある。
…なんて綺麗にまとめるのも、今日は違う気がする。
今日はただ、こう置いておく。
「今日は、休めた。それで合格。」


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